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『ポピュリズム政治に於ける「民衆」と「大衆」』

 

論文名:ポピュリズム政治に於ける「民衆」と「大衆」:批判的コミュニケーション論からのアプローチ

 

著者:山腰修三

 

所収:慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所紀要, No.67, p19-28

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0ahUKEwiI2ZrcnrnXAhUGT7wKHWgZAcgQFggmMAA&url=http://www.mediacom.keio.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/6ad4efb689924fda14b4221bfa219892.pdf&usg=AOvVaw2u3sYBYXLfGRHMY0nxvZA3

 

 

要旨

本稿は、ポピュリズム現象を題材に、その基盤となる「大衆」と、それを創出する「メディア」に焦点を当て、戦後から現在に至るまでの日本に於けるマス・コミュニケーション理論を概説したものである。

 

要約

戦後のマス・コミュニケーション研究は、民衆を受動的でナイーヴな存在と見做す大衆社会理論に立脚する形で形成され、大衆民主主義に対するオルタナティヴな民主主義が模索された。

この傾向は社会科学に於ける実証主義の台頭によって80年代半ばに否定され、インターネットに象徴される双方向型コミュニケーションの普及も相まって、能動的な情報発信によって社会や政治に参加する市民像が提示された。

21世紀に入ると「マスメディアの敗北/ソーシャルメディアの勝利」が喧伝されるようになったが、2016年のアメリカ大統領選挙を皮切りに、マス・コミュニケーションそのものがポピュリズムに組み込まれるという、新たな枠組みでの議論が現れた。

ポピュリズムに於いて、マス・コミュニケーションは、本質的に多様な人々を同一の性質(ex:トランプ支持者)として表象し、ポピュリズムを支持する統一的/等質的な「大衆」像を構築する機能を果たしている。

 

 

 

以下、章立て順に本稿の詳細な内容を説明する。

  

戦後のマス・コミュニケーション論は、①労働階級の量的増大と新中間層の登場、

②テクノロジー発達に伴う大量生産/大量伝達、

③伝統的社会階層の標準化による政治的平等化を特徴とした、原子化/機械化された個人からなる「大衆社会」を前提した大衆社会理論に基いて発展した。

この時期に於けるマス・コミュニケーション理論は、次の3点を基調とする。

①マスメディアは、エリートが受動的な大衆を支配/統制/動員する為の道具である。

②エリートのメッセージはマス・コミュニケーションを通じて個人に直接到達し、即時的な効果をもたらす(皮下注射モデル)

③大衆動員と政治的無関心によって民主主義にネガティヴな影響が生ずる。

従って、戦後のマス・コミュニケーション論は、大衆の「解放」とオルタナティヴな民主主義の構想を志向した。

 

 

社会科学に於ける実証主義への転換に伴い、選択的接触や先有傾向といった心理学モデルや集団内コミュニケーションによるマス・コミュニケーションの影響の増幅/縮減が示されることで、大衆社会理論に基く知見は批判されるようになった。

また、インターネットという双方向型コミュニケーションの発達により、画一的/受動的な受け手としての大衆像は批判され、能動的な情報発信を通じて社会や政治に参加する、多様で能動的な「ユーザー」像が提示されるようになり、21世紀には「マスメディアの終焉」が語られるようになった。

しかし、マスメディアに替わってインターネットが中心になったメディア環境に於いても、「マス」現象は生じうる。

そのようなマス現象のうち、民主主義とメディアに交差する今日的な課題として、メディアを通じた人々の動員を特徴とするポピュリズムを扱う。

 

 

本稿はポピュリズムの特徴を次のように捉える。

①社会を二つの勢力に分断する。

②社会や政治の問題が一方の勢力に起因するものとして二元的対立に位置づける。

③自らが一般民衆と共に敵と戦う「勧善懲悪の物語」を示し、現状に不満を抱く多様な層を抱きこむ。

④メディアを積極的に活用する。

これらの定義に当て嵌まる近年の例が、2016年のアメリカ大統領選挙に於けるD.トランプ候補の戦略であった。

彼はマスメディアを既得権益層に位置付け、自らソーシャルメディアを用いて有権者に直接訴えかけることで、そのどちらもをポピュリズム政治の内部に組み込んだ。

ここに於いては、既にマスメディアとソーシャルメディアの二項対立ではなく、マス・コミュニケーションの総体がポピュリズムを可能にする構造が存在している。

「トランプ現象」を捉えるもう一つの点は、「トランプ支持者」である。

大統領選後の調査によって、トランプを支持した人々は、労働階級の白人男性に限らず、富裕層、女性、黒人/ヒスパニック系などの多様な層から構成されていたことが知られるようになった。

しかし、彼らが選挙期間中、一つのイメージである「トランプ支持者」に集約されていた事も確かである。

このことから、以下のことが理解出来る。

①「大衆」は、ポピュリストが政治的コミュニケーションを通じて意味構築する対象である。

②マスメディア/ソーシャルメディアは共に、政治的主体としての「大衆」の算出に寄与している。

③これらの「大衆」は、本来的には多様なアイデンティティから構築されているが、マス・コミュニケーションを通じて統一的な主体として意味構築される。

 

 

批判的コミュニケーション論に於いては、大衆が構築された存在である事がいち早く指摘されていた。

L.アセルチュールは、メディアが「消費者」「有権者」「国民」として呼びかけることで、人々を現在のシステムの再生産に寄与する主体へと作り上げる機能を持つと述べた(『再生産について』)

これを発展させたS.ホールは、階級と政党との連関を越えて労働者階級からも広く支持を得たサッチャー政権のイデオロギー戦略を、「権威主義ポピュリズム」と位置付け、批判的コミュニケーション論からのポピュリズム分析の枠組みを開いた。

ホールは、ポピュリズムを、広範な集団/階層の支持を受けうる「人民=民主主義的な」シンボルによって多様なアイデンティティを節合し、複合的な統一体を作り上げて支持基盤とするイデオロギーと見なす、E.ラクラウのポピュリズム定式化を参照する。

ホールの分析に従えば、サッチャー新自由主義保守主義を接合し、富裕層には反労働組合的な呼びかけ、労働者には反移民的な呼びかけを行う事で、本来多様であるアイデンティティを節合し、新しい政治主体を表象する「意味づけをめぐる政治」を展開したのであった。

 

 

ラクラウ的なポピュリズム概念に於いては、ポピュリズムは、以下のようにして様々なアイデンティティの中から統一的主体を産出する。

①社会内に於いて要求を掲げる複数のアイデンティティが、何らかの共通性を軸に等価性の連鎖を起こし、集合的アイデンティティを形成する。

②形成された集合的アイデンティティは、自己の要求の達成を疎外する対象を意味構築する(「我々」と「彼ら」の対置)

③集合的アイデンティティは、普遍的なシンボルを構築する事でより多様なアイデンティティを吸収し、拡張する。④「彼ら」を現状の政治システムそのものと見做し、ヘゲモニー闘争が発生する。

ラクラウは、このような集合的アイデンティティによって構築される主体を「民衆」と捉え、ポピュリズムは、複合的に構築された「民衆」の憤懣/要求を明らかにし、民主主義を深化させる可能性を持つと評価していた。

ラクラウにとっての「民衆」は、本質的な異質性と動員による同質性を併せ持つ不確かな存在であり、彼らがヘゲモニー闘争の中で解体と構築を通じて集合的アイデンティティを変動させる事で、民主主義の深化に繋がると考えられたのである。

 

 

 

長くなったが、本文の内容理解はここまで。

 

ラクラウのようなポピュリズム理解は、政治学に於けるスタンダードとは少し異なった見解である為、注意されたい(とは言え、ポピュリズムの可能性に着目する論者は少ないわけではない)

ポピュリズム研究に関する近年の良書として、ヤン=ヴェルナー=ミュラーポピュリズムとは何か』をお薦めする。「現象としてのポピュリズム」に加え、「言説としてのポピュリズム」にも分析を広げており、欧米のポピュリズム概念の差異を明確に示している。

 

 

本稿への総評だが、やや簡略化のきらいはあるものの、戦後日本に於けるマス・コミュニケーション史を概括的に理解するには極めて便利な著作である。 メディア論と政治学の結節点にあるメディア・コミュニケーション論の論考であるが、特段一方に偏った知識を要求するわけでもなく、大変読みやすい。

また、ポピュリズムの例として(またしてもやや簡略化のきらいはあるが)2016年のアメリカ大統領選挙という典型的かつ重要度の高い事例を挙げて、読者の興味を刺激するように論じている。

しかし、「ポピュリズム」概念をトランプ・小泉・サッチャーのみに代表させることは当然出来ない為、議論が早足になっている感は否めず、『ポピュリズム政治に於ける「民衆」と「大衆」』と大上段に構えたにも関わらず、論じきれていないように思われる。

また、よく整理されている一方で、全体を通じて筆者の独自性は薄いものと感じられた。

 

 

本稿への疑問点は、一点のみ。

 

①本稿は、現代に於いては、マスメディア対ソーシャルメディアという二項対立は意味を為さず、そのどちらもがポピュリズムを支える「マス的な」メディアとして働いている、と指摘する。

しかし、本稿でも挙げている通り、トランプ候補は、マスメディアを既得権益層の擁護者で反トランプ派の勢力、即ち「敵」と位置付け、ソーシャルメディアを中心に政治的主張を展開した。

その結果、少なくない人々が彼の言説(その中にはフェイクも含まれている)を毀損のマスメディアより信頼できるものと評価し、拡散した。

この構造は、近年の欧州に於ける右翼ポピュリズム政党の台頭とも共通する。

従って、少なくとも現在に於いて、ポピュリストが権力を掌握しようとする場面=最もポピュリズム的な場面では、マスメディアはポピュリズムを支えるメディアにはなりにくい。

本稿の中であげられている「小泉劇場」は、現在ほどソーシャルメディアの発達していない00年代の例であり、10年後の現在、そのメディア的状況は一変してしまっている。

従って、ポピュリズムを支えるものは「マス化」したソーシャルメディアであり、マスメディアではないと考えられる。

 

 

本稿に関する議論は、常時歓迎している。