セカイ・根源・アレテイア

意味のある場所の似姿を取る衒学ブログです、宜しくお願いします

カフカ『城』読書会 メモ

本文章は、12/17(日)、新宿某所に於けるカフカ読書会の議事録メモです。今回の読書会では、『城』を扱いました。

 

後日、この文章を元に、自身の解釈を、整理して提示します。文章中では、参加者から提示された意見を区別せずにまとめています。

 

 

・『城』の解釈的多様性

本作は、カフカの死後、M.ブロートによって編集出版された、未完の長編小説です。従って、物語全体を貫く意味性を見出すことは容易ではなく、読み手によって多様に解釈の異なりうる作品となっています。作品を通じて頻繁に視点の変動が起こり(顕著なあらわれとしては人称の変化)、常に新しい情報が後出しで積み重なることで、登場人物の印象は複雑に変動します。

物語は主人公と村人たちの会話によって進展し、それぞれの登場人物のキャラクタ性は、実際の言動ではなく、会話中の伝聞・解説という形で提示されます。従って、読者に示されるキャラクタ像は、神の視点による客観的属性として提示されるのではなく、常に「誰かがそう評価する」人物として描かれています。この点では、非常に我々の現実と近い描かれ方をしているように感じました。

その意味では、真にトートロジーではありますが、作品そのものが一意的な意味付けを拒む点で、『城』は極めて「『城』的」な作品であると言えるでしょう。

 

・寓話作品としての『城』

登場人物の誰もが、我々の正常感覚からはいかばかりかズレていて、彼らのコミュニケーションは身体的には過密である一方、精神的には極めてよそよそしいものです。本作をその構造から解釈することは困難ではありませんが(例えば、近代的個人の葛藤だとか、全体性への警句だとか)、実際に文章表現に当たると、真に主人公を「近代的個人」と評価することが可能であるかは疑わしく感じられます。

但し、「公的と私的の癒着」「表象/視覚情報への懐疑」「解釈によって構築される他者」といった幾つかの構造は、明確に、繰り返し提示されるものであり、ある程度確かな意味を見出すことは可能であると考えられます。

 

・解釈の基盤

アーレントの「現れの空間」、構築物としての他者、解釈的多様性、公的と私的の癒着

『理のスケッチ』論考

  

※本稿は、2017年10月下旬から11月上旬に掛けて本ブログに於いて展開された「『理のスケッチ』論考」を継承する形でまとめられた文章です。

 

 

はじめに

 哲学系ノベルゲーム、というゲームジャンルが存在します。読んで字の如く、何かしらの「哲学」を題材とするノベルゲームであり、ノベルゲーム界の一角に、その作品数に比して大きな存在感を持って佇む玉石混交の一群です。その歴史は長く、90年代後半から00年には既に十分な蓄積が確認されます*1。アニメ界に於ける哲学のサブカルチャー化に比べればずいぶんと悠長にも思えますが、サウンドノベルゲームの確立が90年代前半*2であることを考慮すれば、ライトメディア・サブカルチャーに於ける哲学系コンテンツのプラットフォームとして、無視できないものであるでしょう。

 

 さて、今回はそのような哲学系ノベルゲームの概観を試みるのではなく(そのような試みも相当に魅力的であり、価値を認めるものではありますが)、その中でも、私が本年もっとも感ずるところの多かった、捨て鳩(https://twitter.com/sutebato?lang=ja)氏制作の『理のスケッチ』について、しばし綴っていきたく思います。

 

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 本稿は、次のように展開されます。

まず、『理のスケッチ』の世界を少しでも共有する為、あらすじを示します。

第二に、『理のスケッチ』に対する批判的な評価とその理由を提示します。

次いで、『理のスケッチ』に対する肯定的な評価とその理由を検討します。

最後に、『理のスケッチ』に於いて我々に投げかけられた幾つかの論題について、私の時間と能力の許す限りで応答を試みます。

 

 この文章のあらゆる部分は私の主観的解釈と主張によるものですので、箇所個所に於いて、「個人的な意見ですが」などの言明は行いません。

 本文章のすべてが、私の個人的な意見です。

 

 

あらすじ

 それでは、まずはあらすじを確認していくこととしましょう。

 

 日常に対して不確かな憂いと退屈を覚える主人公・河原アキオは、学校の屋上で、偶然『魔の山』の文庫版を拾う。持ち主である同学年の少女・野崎英理との哲学的議論にレゾンデートルを見出した彼は、昼休みや放課後を、彼女と共に屋上で過ごすようになった。

 アキオは、自身よりも優れた見識を持ち、常に透徹した理論的態度でのぞむ英理に惹かれつつ、哲学や文学を語りあう美しい時間を共有する。しかしその一方で、哲学的思索に価値を見出した彼は、級友たちとの日常に齟齬を来たすようになっていた。

 見かねた親友の説得により、アキオは屋上へ足を運ばなくなり、級友たちとの日常へと戻っていく。一方で、アキオの不在は、英理に衝撃を与えていた。冷徹にも見える彼女の外面は、孤立した家庭環境と過去の人間不信を覆い隠す為の盾として構築されたものであったが、数ヶ月に及ぶアキオとの交流は、彼女の長らく求めていた生身の人間との交流そのものであり、彼女の心を開きつつあったのだった。失われた期待はいかばかりか、彼女は学校を休みがちになり、終局点の一つしかない内省の時間を過ごすこととなる。

 時は流れてクリスマスの日、冬休み前最後の授業の後、アキオは英理の旧友から誘いを受け、学校へ来ていない英理の見舞いに行くこととなる。不在の英理の部屋で、アキオは彼女の日記を見付け、彼女の過去、そして過去に裏打ちされた一つ一つの言葉の重みを知る。日記の最後に、英理は重大な決意を記していた。その意味を悟ったアキオは、暗くなる中を、全力で学校の屋上へと向かう。彼女ともう一度向き合い、自らの言葉を伝える為に。

(筆者作成)

 

 御覧のように、本作品は、非日常に於けるボーイミーツガールを基本構造としています。日常にたゆたう河原アキオが「屋上」という非日常の空間で出会った存在が、ヒロイン・野崎英理であり、彼が彼女と共に過ごす時間は、常に、教室=日常を離れた屋上=非日常の空間に於けるものです。彼らを媒介するものは一冊の本、トーマス・マンの『魔の山』であり、それは物語の全体を貫いて変わりません。彼らは『魔の山』によって出会い、その解釈によって分かれ、その言葉によって再び出会います。

本来ならばここで、『魔の山』と本作の構造的共通点に触れるべきなのでしょうが、私が同書を読んだのはもう4年近く前のことですので、精密な議論には再読の要があり、今回触れることは叶いません。また、セテムブリーニとナフカ、対話とニヒリズムの二項対立などは、本作品で明示的に示されているため、敢えて言及する必要はないでしょう。

 

 さて、本作のような、主人公=日常、ヒロイン=非日常、作品全体を貫くアイテム、といった構造は、所謂「ゼロ年代セカイ系」作品*3の共通項でもあります。その中で本作は、日常と非日常の境を、バケモノや異能力ではなく、「哲学」というごくごく身近な(これには異論がありそうですが)我々の営為に依拠させています。

 そのように捉えるならば、本作は、基本的な材料は極めてオーソドックスなもので、単に調味料を変えてみただけのありふれた料理のうちの一品、「ゼロ年代の残滓」の一つとして片付けられてしまうのでしょうか。

 紙幅を割いている以上当然ですが、本稿では、それに否と答えます。

 本作品は、外観を塗り替えただけの量産型セカイ系でも、自身の浅薄な人生哲学や包括的教説もどきを開陳する空虚な作品でもありません。また、いまだにセカイ系作品に固執するゼロ年代ゾンビや、ペダンティック中二病患者を釣るために作為的に作られたものではなく、確固とした独自の価値を持って、ノベルゲームに刻まれるべき作品であると考えます。

 

 一方、本作は秀作でこそあれ、名作と呼ぶことには逡巡を覚えます。その主たる理由としては、「極端なまでの門戸の狭さ」が挙げられるでしょう。次項からは、本作の有する問題点について検討していくこととしましょう。

 

  

本作品への批判的評価

 まず、本作品に対して私が提示する批判の構造を明示します。

①私は、『理のスケッチ』が、その極端な門戸の狭さゆえに問題を抱えていると指摘します。

②「極端な門戸の狭さ」が具体的に何を意味するか、視覚表現、題材、物語の構造、の三点に分けて提示します。

③その後、「極端な門戸の狭さ」が何故問題であるかについて検討します。

 

 「極端な門戸の狭さ」とは、哲学的/思弁的議論をたしなまないプレイヤーに対する、本作の本質的な疎外可能性を意味したものです。

 本作『理のスケッチ』は、少なくとも、現在見られる「哲学系ノベルゲーム」の中にあって、極めて高い水準にある作品です。それ故に、今後「哲学系ノベルゲーム」に着目した際、代表作の一つとして挙げられるポテンシャルを十分に有していると考えます。

 しかし、その質の高さは、カジュアルなプレイヤーの排斥によって保たれているものです。これは、今後『理のスケッチ』を通じて「哲学系ノベルゲーム」に参入しようとする人々、或いは「哲学系ノベルゲーム」に興味を持って本作を手に取った人々を、容赦なく拒絶することに繋がります。

 また、哲学は、高い悟性/理性/知性を持った人々の独占物ではありません。哲学は、我々の日常から生まれ、日常に帰りうるものです。本作は、思弁の象徴であるヒロインを、日常の象徴である級友と対置しており、ヒロインが哲学的思索を好むようになった背景を、極めて特殊な事例として捉えています。本作に於いては、「普通の人々」は、哲学にコミットすることが叶いません。この構図は分かりやすいものですが、知者こそが陥りやすく、思想史に於いて、日常を哲学と乖離させた思考の根底でもあります。

 従って、本稿は、本作品の持つ「普通の人々」を拒絶する構造が、本作品から導かれる哲学の可能性を狭隘なものにしてしまっていると指摘します。

 

 さて、概論はここまでにして、具体的な検討に入りましょう。

 

1.視覚的表現 

 

 本作を最も異色たらしめているものは、冒頭一分も経たぬうちに、画面の上から下までをびっしりと画面を埋め尽くしていく文字の群れです。

  

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 これを見て私が直ちに思い起こしたのは、初めて中上健次の原稿を開いた時の衝撃でした。文章の一つ一つは、理知的ではあるものの、それ故に読み難さを残し、目立たない程度ですが誤字も残っています。しかし、一面に広がる文字の海は圧倒的な暴力となって、我々にページを捲らぬことを許しません。ぎっしりと詰め込まれた文字は時にあまりに多くを語り過ぎ、文章の知性と相まって、我々を圧倒していきます。

 この文字たちは、画面を埋め尽くさないことを知りません。多くのシーンに於いて、登場人物は覆い隠され、背景はそのままに後背化し、ただ文字のみが我々と向き合います。或いは、我々が文字のみを浮かび上がらせます。

 やがて我々は、今や小説を読んでいるのではないかと気付くことになります。

 

 小説とノベルゲームは、確かに近縁ではありますが、決定的に異なるものです。

 ノベルゲームに於いて我々は、多くの場合、情景を想像することから解放/剥奪されているはずです。しかし本作では、文字が前景化する事によって、イラストが情景の役割を全うすることは無く、常に覆われ隠されています。

 より正確に言えば、イラストが「情景の役割を全うすることは無」いわけではありません。このように文字が全画面に表示されるノベルゲームは他にも無数に存在します。しかし、本作ではそのいかなる作品に比べても、より明示的に文章を提示することに力点が置かれています*4

 本作を読み進める間、我々はイラストからではなく、文章から情景を現します。この営為は根本的に、ゲームのそれではなく、散文のそれです。言うなれば、本作に於けるイラストは、挿絵の役割を果たしているにすぎません。

 

 故に、『理のスケッチ』は、ノベルゲームではなく小説に近く、一般的なノベルゲームに慣れた者には、強い違和感を抱かせる作品となっています。場合によっては、途中で手を止めてしまうプレイヤーも居たかもしれません。また、他者に紹介する場合にも、これを「ノベルゲーム」として紹介することが適切か、少なからず疑問を抱くでしょう。

 このように、本作に於ける文字の視覚的効果は、その大きな魅力の一つでありながら/あると共に、本作が人口に膾炙しない重大な要因の一つとなっていると考えます。

  

 それでは、作者は本作に於いて、ゲームの姿を借りた散文を著そうとしたのでしょうか。

 答えは、否でしょう。

 書き手が文章に特権的な地位を与えることで、ノベルゲームが単なる「文章を読ませる装置」に堕してしまうことの危険性は、誰よりも作者自身によって注意深く指摘されています。

  

 ” 僕の考える自分の書いた文章とは、bgmや背景と同様オーケストラの一要素にすぎないというのが持論です。

だから自分が書いた文章だけでは表現したいものに足りないために、集団を組んで演奏するのです。

提供していただいた音楽素材と、それを表現した自分の言葉どちらかに優先しているとは思いません。

 もしそのパートのどれかに特権をもたせるのだとしたら、それこそ組んで演奏する必要はありません。”

 

 

  “結論つまりこれは順序が逆なのです。文章を書いてるだけでは表現しきれないものだから、背景や音楽を引っ張ってくるのであって、文章を書いてる時点で十分だと考えているところから、ノベルゲームの形式に理に叶った説明を設けるわけでは無いと思われます。”

 

ngrmds2016.exblog.jp

 

  明らかに作者は、意図してこのような表現形式を取っています。何故、表示枠を設けるのではなく全画面に書き連ねる形式を取ったのかは、作者にしかわかりません。しかし、作品の総体がオーケストラであるならば、このような表現は、作者にとって欠かせない一つのパートであったはずです。

 而してこの表現は、本作に於いて不可欠なものでありながらも、本作が人を選ぶ作品となった大きな要因であると考えられます。

 

 

2.題材

 

本作品の扱う題材は、文学論、心の哲学、論理学、ニヒリズム、解釈学、正義論etc…… と多岐に及ぶ上、作者の知性に裏打ちされた精密な論理に基き、少なくない哲学的タームを用いて展開されます。

 

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 従って、これらに縁遠いプレイヤーにとっては、主人公とヒロインが目の前で展開する議論を追いきれず、そのような状態では殆ど無意味にも思える文章を眺めるという苦痛に遭遇します。当然、登場人物に対する感情移入は不十分で、物語全体を楽しむことは、一見困難です。

 繰り返しになりますが、これもまた本作の魅力の一つでもあるのです。これらの分野に造詣なり関心なりのある向きであれば、本作に於いて交わされる議論を十分に楽しみ、時にはゲームを止めて自ら思索に耽ることもあるでしょう。その場合、本作品はいよいよ愛着の強いものとなっていくであろうと考えられます。

  

実際に、本作に対して寄せられたレビューには、思弁的部分に対する批判的評価も見られます。

 

“先ず以て目を引く要素は、恋愛モノの物語には不相応と思われるような哲学的な省察の数々でした。ロストジェネレーション、クオリア、無限の可能性その他と、僕自身教養には乏しい人間なので、畳み掛けるように開示されていく理知的な思弁の数々に当初は嫌悪感を抱くような感情の動きもありました。”

   

“この作品をプレイした感想ですが、序盤内容が難しいと思いながらプレイしていました。私は題材となっている作品を知らないので、それを饒舌に語り、主人公の疑問の一枚も二枚も上を行くヒロインをさながら哲学マシーンかのようにも感じていました。しかし、そんな彼女にも弱いところがある、むしろ他人よりずっと弱いかもしれないひとりの人間であると気づいてからは、物語に目が引かれるようになりました。”

 

 

www.freem.ne.jp

 

 

 両者とも、本作に於いて展開された哲学談議に対して少し距離を置いているように見受けられます。後者のように、哲学的部分を人間ドラマのスパイスとして受け止めることが出来れば良いのですが、本作品のボリュームの多くは主人公とヒロインの哲学的対話に割かれており、物語に人間性が前景化するのは、終盤も迫ってのことになります。

 また、本作品で提示された哲学的議論(ニヒリズム実用主義、人の心を理解すること、対話が世界を変えることが出来るか、等々)は、そのまま、本作品に於いて語られる少年と少女の物語に、密接に関係しています。

 従って、本作品の全体を楽しむには、このような哲学的議論を理解する素養が必要になっています。

 

 さて、これらの指摘を受け、作者自身も、以下のように丁寧な応答を行っています。

 

“ただその点は評価点としても、レビューを見る限りそれを伝える方法については工夫の余地があったと反省しております。おそらく大半のプレイした人は序盤の啓蒙的な点が嫌味に感じるか、退屈に感じるかして、読み止めてしまったのでしょう。

ですので序盤を牽引する魅力は物語にはなく、完全に読者の我慢強さに依存していた点が盲点です。そういった意味でこの冗長な物語にある程度の信用を持って接してくれた、ある意味主人公に近い読者の皆さんには頭があがりません。

 あくまで思想や知識を作品に盛り込むことを前提にするならば、

人間ドラマ→思想→人間ドラマ というような徐々に風呂敷を広げていく構成が本当は望ましいのでしょう。それに関しては文学作品にごまんと良いお手本があるので、そちらから盗んできたいと思います。指摘ありがとうございました”

 ngrmds2016.exblog.jp

 

 

“レビューを見る限り、序盤の哲学やらの議論は多少蛇足気味かなと猛省しております。

もちろんただ適当に書いたというわけではなく、ブログにある解説にある通り、そしてまだ明かしていないテーマにも渡って作者の意図というものはちゃんと用意しているのですが、それが作者のわがままに付き合わせているという印象を与えていると一旦理解したならば、それは反省点だと受け取るべきだと思っています。もしくはもう少し口当たりを柔らかくして、わかりやすくするといった工夫が必要なのでしょう。

 中盤から始まる人間ドラマの部分を買っていただいているのならば、そういった面を強調した方が良いかと只今苦戦しています。本当ならそのバランスが程よく調和するのが望ましいのですが、やっぱり難しいですね。一応次回作っぽいものはそういう方向を目指しています。”

 

ngrmds2016.exblog.jp

 

 私も、作者自身の内省に示される通り、”おそらく大半のプレイした人は序盤の啓蒙的な点が嫌味に感じるか、退屈に感じるかして、読み止めてしまった”、” 序盤を牽引する魅力は物語にはなく、完全に読者の我慢強さに依存していた” 点が、本作の題材に於ける問題であると考えています。

 

ただでさえ哲学的論議に於いては、書き手と読み手の主観的制約によって、お互いの意味するところが素直に通じ合わないことが多々あるものです。況してや、これらの内容に殆ど興味も経験も無い人々にとっては、レビューに於いて、当初ある種の不快感を抱かれた方すらいるように、好んで読み進めようと思うものではないかもしれません。

 

 従って、哲学的論議が大きなボリュームを占め、それをある程度理解することが求められる本作は、思弁的なものと縁遠い人々を少なからず排除したでしょう。

 哲学や論理学は、思弁の独占するところではなく、一般の人々にも見出すことの出来るものです。一般の人々をこそ半ば意図的に排除した点に於いて、本作は、その高い完成度と今後の哲学系に与える影響の大きさを鑑みて、批判を受けるべきであると考えます。

 

 

3.物語の構造

 あらすじの項で述べたように、本作の物語は、「教室=日常=クラスメイト」VS「屋上=哲学=ヒロイン」の二項対立をその構造として進行していきます。

 ヒロインは、登場当初から、群衆を避けて一人静かに山頂(屋上)で佇む存在です。

 

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 また、主人公の心情的変遷も、「思索への憧憬とある種の諦念→ヒロインとの邂逅と哲学的議論→日常との乖離→親友の忠告→日常への復帰→ヒロインと哲学からの乖離→ヒロインとクラスメイトの両立、大団円」と、終局に至って二項が融合する*5直前まで、哲学と日常は徹底的に両立しえないものとして対置され、主人公によって何度も強調されます。

 このような構造に対する批判は、既に触れた通りですので繰り返しません。

 

 さて、本作に於いて「哲学」の側に存在する人物は、ヒロインである野崎英理と親友の二人です(彼らは主人公をそれぞれの論理から引き込もうとします。従って、本作に於ける哲学は、古典的な真理追及のそれではなく、いかに強力な論理を提示できるかを競い合う思考ゲームとして示されているかもしれません)。

 野崎英理は過去の経験から、自身を守るために他者に対する無干渉を是とし、他者との間に溶け込むことが出来ていません。親友は、衝突を避けるためにその場に応じて振舞いを変えることで、他者との間に溶け込むことが出来ています。一見異なるキャラクタとして描かれる両者ですが、共に、他者に対して正面から向かい合うことを避けている点では共通しています。

 本作に於ける哲学的キャラクタは、どうやら他者と共にあることを不得手とするようです。

 

 プラトンやルソー、ニーツェ、アーレントを引くまででもありませんが、哲学者は、孤独であり続けてはなりません。

 近代人は、あまりに長らくの間、哲学を内面的思索に縛り付けてきました。それは、ステントールの声が行き届かない近代国家に於いて、ある意味必然であったかもしれません。しかし、今や人々の声は全世界に広がるようになりました。ここに於いて我々は、再び人々の間(inter-persons)に哲学が戻りつつあることを確認することが出来ます。

 このような時代に於いて、プラトンの「星を見る人」のアナロジーに似た哲学観が押し出されていることは、本作を、ありがちな作品群の一つに回収しかねないと言えるでしょう。

 

 

 最後に、誤解なきように記しておくならば、本作に対する批判はすべて、「作品」に帰する批判であるということです。正直に言えば、本作の批判されるべき要素は、本作の魅力と不可分です。

 また、私が示す問題点は、恐らく既に作者も十分に承知のことでしょう。私もそれを承知の上で、『理のスケッチ』の示す世界の切り取り方、描き方に対して、疑問を呈するのです。本作の魅力が批判され得る要素にこそあるとしても、それを理由に、批判され得るべき部分を看過することは是とすべきでないと考えます。制作者は常に、他者の意見を受け取る権利を持つからです。

 

 例えば、「哲学vs日常」の構造について述べてみましょう。

 本作は、確かに最終的には、哲学を抽象から具体へと移行させます。

 

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 しかし、それ以前に提示された「哲学vs日常」の構図が余りにも明確で確固たるものである為に、プレイヤーの多くは、本作全体を通じて、日常と哲学、教室と屋上が対置されていたような読後感を抱くでしょう。

 作者のメッセージが何であれ、物語の構造の中で解釈されるものであるならば、その構造自体の是非は問われるべきであるように考えます。

 

 念の為、もう少し言い訳がましく更に記しておくならば、私は個人のプレイヤーとして、思弁的随想を突き詰めた作品である本作が大好きです。今年巡り合った中では本作が随一のノベルゲームであり、私の今後に何らかの影響を与え得る作品であると思っています。

 高い衒学性(ここでは肯定的な意味で用いています)、知的セカイに於けるボーイミーツガールと主観性の究極的なやりきれなさ、中高生特有の空虚な現存在性、サロン的空間としての屋上、これらは個人的な性癖の真中であり、河原アキオと野崎英理の物語に同様の経験を高校時代に有した私にとっては、心の底からノスタルジアを喚起されるものでした。

 また、個人の制作者としては、制作欲求に忠実に作り、その結果を世人に問い、評価することに耐え得る者のみが評価せよ、というスタンスは、私自身の中にもかなりのウェイトを占めて存在するものです。

 

 一方で、私は、制作者は常に、生産的な批判を受け止める義務を持つとも考えます。批判の存在によって、制作者の更なる研鑽とプレイヤーとの相互理解が刺激されるからです。

 H.アーレントの示すように、我々は他者と共にあって初めて、自身の思考を布置することが可能になります。一切の刺激のない空間に於いて、私は私を認識するでしょうか。私は、本論考が「生産的な批判」であることを祈って、この文章を記しました。

 また、このような批判を呈した私自身も、同じ批判を受ける覚悟を持って創作に携わらねばならないでしょう。このことを踏まえ、私からの応答となる作品を提示せねばならないとも考えています。

 

では、本節はこの辺りで区切り、次に、何を以ってこの作品が評価されるべきであるのか見ていくことにしましょう。

 

 

本作品への肯定的評価

 

1.衒学を目的としない誠実な文章

 インターネット全盛期が叫ばれて久しい今、ネットユーザーの多くが、情報を消費すると同時に、自ら発信する生産消費者(pro-user)となっています。哲学や倫理学に関する情報も膨れ上がり、ネット上には玉石入り乱れる無数の言説が溢れていますが、そのうちの少なくないものが、衒学や「芸」の為の手段として用いられるようにもなってきています*6

 ご存知のように、哲学(少なくとも我々が「哲学」と呼ぶ西洋哲学)は古代ギリシャに生まれ、現代の我々が分解して理解している諸学問と、本質的に不可分のものでありました。哲学は我々の基本的な営為、政治、即ち公共空間に於ける他者との交流と本質的に不可分であり、そこに於いて重視された概念が、自己の責任に於いて真理を語ること、パレーシア(παρρησία)でした。対等な市民として公共の共同行為に携わることが政治であり、そこに於いては実践的な倫理学が不可欠のものとされていました。

 その後、哲学は諸学問との分離によって、より精密な理論的探究へと舵を切り、論理哲学や分析哲学として体系化されます。ここに於いて哲学は、少なからず人々の日常から乖離したものとなり、教養階級や読書人の専らとするものとなりました。

 さて、現代に於ける哲学も、いまだ人々の日常に復帰できてはいません。寧ろ、それが哲学的であるかを問わず、無暗に晦渋な文章や難解な思考が「哲学的」と揶揄されるように、一層その乖離は進んだように感じられます。その例が、冒頭に示した「ネタとしての哲学」の隆盛です。

 

 本作は、先に検討したように、表現も題材も、プレイヤーに対して優しいとは言えず、寧ろ鬱蒼たる森に迷い込ませようとしているかのようにさえ思えてしまいますし、これを嫌らしく感じた人さえいるかもしれません。しかし、本作の文章は、小手先の難解さでプレイヤーを幻惑し、知識をひけらかすものとは、対極にあるように感じられます。

 先に述べたように、本作の文章表現が私に想起させたものは、中上健次の原稿でした。中上の原稿は書き損じと修正にあふれ、ギリギリまで文章を詰め込む為に、押し潰された虫のようにのたうった文字で綴られています。本作の文章は、これによく似ています。気にとめる程ではありませんが誤脱字も散見され、時には改行されることなく、文章は続きます。私はこれを、作者が、自身の言葉でひたむきに綴った証拠であるように受け取りました。

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上の原稿です

出典:ほろ酔い社長の雑記帳

 

 一見衒学性を高めるように思われる哲学タームも、その度ごとに、野崎英理の口を通じて丁寧に解説されます。作者は、明らかにプレイヤーを待ちながら物語を進めようとしています。

 物語が進むにつれ、アキオと英理、二人が何を考え、何を経験したのかも、或いは彼らの話の中で、或いはモノローグによって、過不足なく補われていき、現実にすらありがちな不条理性や理不尽さまでもが丁寧に整理されていきます。ここに於いても、批判的観点として提示した「ゲームではなく小説」という指摘が、今度は肯定的なものとして意味をなしています。本作に於いて、プレイヤーは完全に「神の視点」を担保され、それによって物語の全貌をつかむことができます。

 

 仮に本作がよりゲーム的で、主人公視点の選択肢型ノベルゲームであったなら、どうだったでしょう。我々は野崎英理の思考、彼女を理解する上で不可欠な、彼女自身が学校や家で巡らせた内省と思考を知ることなく、最終章に突入することとなります。我々が、野崎英理の思想が血を吐くような実体験に裏打ちされたものであることを、河原アキオと同時に知ることになります。その場合我々は、親友に説得された後の河原アキオと野崎英理のすれ違いに歯噛みすることも、自身を追い詰めていく野崎英理の内省に焦燥することも叶わず、本作で示された論題の一つ、「我々は最終的に、互いのことを真に理解することは叶わないのではないか」という問いに思いを巡らせる時間を与えられなかったでしょう。

 

 話がそれてしまいましたが、確認したように、本作は、作者自身の言葉によって誠実に紡がれ、我々に適切に届くように丁寧に整えられたものであると評価できます。それは、古典的哲学に於いて重視されたもの、自己の責任に於いて真理を語る「パレーシア」の体現であると言えるでしょう。

 本作品が「哲学系ノベルゲーム」に於いて有する高い価値の一つは、単に哲学を題材とするのみではなく作品そのものが哲学的伝統に対する忠実な応答である、ということに基づくものと評価することが出来ます。

 

 

2.プレイヤーとの対話

 さて、1.に於いて確認した通り、本作品に於いて作者は、我々に対して真摯に向き合い、語り掛けようとしています。

 本作を読み進めていく間、河原アキオと野崎英理の対話を通じて我々に提示される哲学的/文学的な話題は、単なる作者の思想の開陳でも、通説のもっともらしい解説でもありません。それらを通じて作者は、我々に、世界といかに向き合っているかを再考させようとしています。いえ、「我々に再考させようとしている」のではなく、「我々と再考しようとしている」のでしょう。野崎英理の論証は一歩一歩丁寧で、我々が理解しながら読み進められるように作られています。また、対する河原アキオの疑問も、我々に思考の契機を与える重要な役割を担っています。

 本作を読み進めることは、思考することと同義ですらあります。我々は同時に、マクロな世界、即ち河原アキオと野崎英理の日常について思考し、セカイ、即ち河原アキオと野崎英理の関係や交わす言葉について思考し、ミクロな世界、即ち河原アキオと野崎英理の内面的な思索について思考します。

 この作品を読むことは、濃密な哲学的思考を経ることと近しいものがあります。

 

 勿論、単なる疑問提起だけであれば、そう珍しいものではありません。Amazonで『100の思考実験』でも購入すれば事足りるでしょう。

 本作の価値は、作者による応答にあります。

 先程から引用していますが、作者のブログでは、「理のスケッチ 解説」と「ふりーむに於いて寄せられたレビューに対する往復書簡」という記事を見つけることが出来ます。そこでは、本作に対する作者の解説と、感想に対する丁寧な応答が記されています。

 このような記事の存在は、ある作品を読む上で、極めて大きな価値を持つこととなります。それが本作のように思索と不可分のものであれば尚更です。

 

 設定は作者のものですが、解釈は読者のものです。世界が二人の人間に全く同じ姿を見せることはあり得ないからです。しかし、どの解釈も同等の価値を持って一様に正しいわけではありません。作者の設定が模範解答であれば、解釈は価値を失うでしょう。一方で、いかなる解釈も許されるのであれば、解釈を行う意義が失われるでしょう。

 従って、我々は、いかなる解釈が適切であるかを、作者と受け手、受け手と受け手の対話によって見出していかねばなりません。

 この点に於いて、作者自身が解説(作者自身の世界解釈)と感想への応答(読み手の世界解釈への対話)を公開していることは、我々が本作に対する自身の解釈を検討するにあたって、大きな道標となるのです。

  

3.一部人士への圧倒的な訴えかけ(読み飛ばして頂いて結構です)

 本節で述べる肯定的部分は、これまでに本稿の基軸となってきた「哲学と日常の対置による門戸の狭さ」とは矛盾するものです。

 中程で述べた通り、私は個人のプレイヤーとしては、本作品を手放しで評価できると考えています。

 本作品は、哲学的思索にコミットし、教養を重んじ、サロン的空間を愛する/しようとする人々にとって、極めて美しい世界を示してくれます。その空間が「屋上」、学校に於ける日常=教室から切り離された、非日常的な異空間です。或いは人によっては、それはプールの裏であったり、体育館のバルコニーであったり、図書館二階の窓際の席であったり、旧校舎の使われなくなった教室であったりするでしょう。ともかく、それらの象徴としての「屋上」に於いて、世界との関わり方に対して疑問を持ち続けてきた少年と少女が出会い、彼らだけの時間を共有します。彼らは、日常に於いて出会うことはありませんが、屋上にいれば相手がいるだろうという、根拠のない信頼を共有しています。そこで二人で話すものは、人間の心の在り方だとか、時間だとか、空の青さだとか、文学論だとか、とにかく、「およそ人生の役に立たない」とされているものです。彼らは部活にいそしむわけでも、クラスで談笑するわけでもありません。屋上の対話は強制されたものではなく、互いに黙って書を紐解いても良いし、寝そべって空を見上げても良いし、或いはお気に入りの小説の一説を演じあっても良いのです。何という、プラトニックで美しい世界。理想郷はここにあったのでしょう。しかも、彼らは互いに、相手の世界に踏み込もうとはしません(それ故に本作では問題になるのですが、今は置いておきましょう)。あの時間だけを切り取るならば、古今の読書人たちが夢想した、フィロソフィアルな空間が顕現するのです。そのような空間を少しの間だけであっても懐古できること、或いは夢想できることは、一部の人々にとって、本作が他に代えがたい価値を持つことを意味するでしょう。

 

 さて、戯言はこの辺りにしましょう。当然ですが、このような理想郷は、皮相的な観察、我々の恣意的な解釈による夢ですらあります。

 実際には、彼らは屋上で過ごした間、相手と正面から向き合うことができませんでした。河原アキオは第一回の決断の際に、現前にある野崎英理と向き合うのではなく、自身の推論する野崎英理から答えを引き出します。現実の野崎英理と向き合うのではなく、彼の解釈による野崎英理を構築したと言えるでしょう。勿論、我々は他者を考える際、一切の痛みを伴うことなく他者の似姿を召喚することが出来ますし、普段はそうしています。従って、彼を責めるべきではないのかもしれません。また、野崎英理は過去の経験から、他者に対して正対することが出来ず、緩やかな関係を結んだ河原アキオに対しても、それは変わることがありませんでした。彼女に至っては、他者との邂逅、それ自体を忌避しているように感じられます。事実、実態を持った他者に触れることは、須らく痛みを伴います。従って、あの美しい屋上の空間では、我々は互いと本質的に向き合うことを望まないし、許されないのかもしれません。最終章に於いてお互いと正面から向き合った時、屋上ではついぞ触れ合うことのなかった*7二人が抱き合って泣くのは、初めて実存在としての相手に触れたことと無縁ではなかったはずです。

 

 随分と長くなりました。そろそろこの時間も終わりにしましょう。一言で陳腐にまとめるならば、本作は、シナリオ、文章、演出は言うに及ばず、その表出する世界や作品自体の価値にも優れ、総体として一つの物語を現出する事に成功した、優れた作品です。

 間違いなく「哲学系ノベルゲーム」の一つの答えの形であり、今後、本作に触れずして「哲学系ノベルゲーム」を語ることは困難であろうと考えます。 

  

 

論題への応答

 

 紙幅と時間の都合上、『理のスケッチ』から我々に対して投げかけられた論題への応答は、日を改めて少しずつ記していこうと思います。

 具体的には、以下の内容を扱うつもりです。

 

・哲学と日常の関係について

・支配から逃れる自由と支配を認める自由について

・哲学的「思い付き」と思考の遮断について

・時間の客観性について

・色とクオリア、世界の認識について

・責任と可能性について

・規則、或いは社会的規範の獲得について

・犠牲について

・”正しさ”の絶対性について

・good(良/善)の絶対性について

・世界に対する漸進的な改善について

・心と感情、言葉について

・対話か、ニヒリズム

 

 なお、極めて残念ながら、筆者の知識の関係上、これらの論題への応答は、倫理哲学や理論哲学、分析哲学ではなく、政治哲学を援用して行われることとなるでしょう。

 その為、幾ばくかの「解釈の汚染」が問題となるかもしれません。「理のスケッチ」がまだ若い作品であり、本作に対する解釈が(私の知る限りでは)まだ十分になされてない以上、私がここで正統的ではない解釈を垂れ流すことが、果たして正当化され得るかは大いに疑問です。

 

 無論、これらの哲学が極めて近しいものである以上(ご存知の通り、近代以前には同一のものでした)、相応の議論は可能であり、敢えて正統を少し外した観点から論ずることで、新たな思考の可能性が生まれるとは考えます。

 また、これらの論題の幾つかについては、既に作者自身が相応の解説を行っています。従って、少なくともこれらのものについては、彼我の観点を対照することで、何らかの発見が生まれると考えます。

 いずれにせよ、全力を尽くして誠意ある応答を心掛けますので、お付き合い頂ければ幸いに思います。

 

 

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*1:e.g.『Prismaticallization』(アークシステムワークス,1999)、『infinityシリーズ』(KID,2000)

*2:e.g.『弟切草』(チュンソフト,1992)

*3:e.g.『空の境界』(那須きのこ,1998)、『灼眼のシャナ』(高橋弥七郎,2002) 

*4:私は不勉強にして、今年世に出たノベルゲームに於いて、本作に似た文章表現を取り、本作に比する文章の質を有する作品としては『Dear My Abyss』(ベリアル,2017)を挙げることしか叶いません。

*5:つまりこの物語は、二項対立がすれ違いを生む批判されるべきもので、最後には解消されることを示唆しています。

*6:Twitter上の「倫理界隈」と呼ばれる人々がその好例でしょう。

*7:今、記事の投稿前に見返していたら、一度だけ英理がアキオを叩いていました。見なかったことにしたいのですが、そうもいきません。どなたか上手く解釈して下さい

『ポピュリズム政治に於ける「民衆」と「大衆」』

 

論文名:ポピュリズム政治に於ける「民衆」と「大衆」:批判的コミュニケーション論からのアプローチ

 

著者:山腰修三

 

所収:慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所紀要, No.67, p19-28

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0ahUKEwiI2ZrcnrnXAhUGT7wKHWgZAcgQFggmMAA&url=http://www.mediacom.keio.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/6ad4efb689924fda14b4221bfa219892.pdf&usg=AOvVaw2u3sYBYXLfGRHMY0nxvZA3

 

 

要旨

本稿は、ポピュリズム現象を題材に、その基盤となる「大衆」と、それを創出する「メディア」に焦点を当て、戦後から現在に至るまでの日本に於けるマス・コミュニケーション理論を概説したものである。

 

要約

戦後のマス・コミュニケーション研究は、民衆を受動的でナイーヴな存在と見做す大衆社会理論に立脚する形で形成され、大衆民主主義に対するオルタナティヴな民主主義が模索された。

この傾向は社会科学に於ける実証主義の台頭によって80年代半ばに否定され、インターネットに象徴される双方向型コミュニケーションの普及も相まって、能動的な情報発信によって社会や政治に参加する市民像が提示された。

21世紀に入ると「マスメディアの敗北/ソーシャルメディアの勝利」が喧伝されるようになったが、2016年のアメリカ大統領選挙を皮切りに、マス・コミュニケーションそのものがポピュリズムに組み込まれるという、新たな枠組みでの議論が現れた。

ポピュリズムに於いて、マス・コミュニケーションは、本質的に多様な人々を同一の性質(ex:トランプ支持者)として表象し、ポピュリズムを支持する統一的/等質的な「大衆」像を構築する機能を果たしている。

 

 

 

以下、章立て順に本稿の詳細な内容を説明する。

  

戦後のマス・コミュニケーション論は、①労働階級の量的増大と新中間層の登場、

②テクノロジー発達に伴う大量生産/大量伝達、

③伝統的社会階層の標準化による政治的平等化を特徴とした、原子化/機械化された個人からなる「大衆社会」を前提した大衆社会理論に基いて発展した。

この時期に於けるマス・コミュニケーション理論は、次の3点を基調とする。

①マスメディアは、エリートが受動的な大衆を支配/統制/動員する為の道具である。

②エリートのメッセージはマス・コミュニケーションを通じて個人に直接到達し、即時的な効果をもたらす(皮下注射モデル)

③大衆動員と政治的無関心によって民主主義にネガティヴな影響が生ずる。

従って、戦後のマス・コミュニケーション論は、大衆の「解放」とオルタナティヴな民主主義の構想を志向した。

 

 

社会科学に於ける実証主義への転換に伴い、選択的接触や先有傾向といった心理学モデルや集団内コミュニケーションによるマス・コミュニケーションの影響の増幅/縮減が示されることで、大衆社会理論に基く知見は批判されるようになった。

また、インターネットという双方向型コミュニケーションの発達により、画一的/受動的な受け手としての大衆像は批判され、能動的な情報発信を通じて社会や政治に参加する、多様で能動的な「ユーザー」像が提示されるようになり、21世紀には「マスメディアの終焉」が語られるようになった。

しかし、マスメディアに替わってインターネットが中心になったメディア環境に於いても、「マス」現象は生じうる。

そのようなマス現象のうち、民主主義とメディアに交差する今日的な課題として、メディアを通じた人々の動員を特徴とするポピュリズムを扱う。

 

 

本稿はポピュリズムの特徴を次のように捉える。

①社会を二つの勢力に分断する。

②社会や政治の問題が一方の勢力に起因するものとして二元的対立に位置づける。

③自らが一般民衆と共に敵と戦う「勧善懲悪の物語」を示し、現状に不満を抱く多様な層を抱きこむ。

④メディアを積極的に活用する。

これらの定義に当て嵌まる近年の例が、2016年のアメリカ大統領選挙に於けるD.トランプ候補の戦略であった。

彼はマスメディアを既得権益層に位置付け、自らソーシャルメディアを用いて有権者に直接訴えかけることで、そのどちらもをポピュリズム政治の内部に組み込んだ。

ここに於いては、既にマスメディアとソーシャルメディアの二項対立ではなく、マス・コミュニケーションの総体がポピュリズムを可能にする構造が存在している。

「トランプ現象」を捉えるもう一つの点は、「トランプ支持者」である。

大統領選後の調査によって、トランプを支持した人々は、労働階級の白人男性に限らず、富裕層、女性、黒人/ヒスパニック系などの多様な層から構成されていたことが知られるようになった。

しかし、彼らが選挙期間中、一つのイメージである「トランプ支持者」に集約されていた事も確かである。

このことから、以下のことが理解出来る。

①「大衆」は、ポピュリストが政治的コミュニケーションを通じて意味構築する対象である。

②マスメディア/ソーシャルメディアは共に、政治的主体としての「大衆」の算出に寄与している。

③これらの「大衆」は、本来的には多様なアイデンティティから構築されているが、マス・コミュニケーションを通じて統一的な主体として意味構築される。

 

 

批判的コミュニケーション論に於いては、大衆が構築された存在である事がいち早く指摘されていた。

L.アセルチュールは、メディアが「消費者」「有権者」「国民」として呼びかけることで、人々を現在のシステムの再生産に寄与する主体へと作り上げる機能を持つと述べた(『再生産について』)

これを発展させたS.ホールは、階級と政党との連関を越えて労働者階級からも広く支持を得たサッチャー政権のイデオロギー戦略を、「権威主義ポピュリズム」と位置付け、批判的コミュニケーション論からのポピュリズム分析の枠組みを開いた。

ホールは、ポピュリズムを、広範な集団/階層の支持を受けうる「人民=民主主義的な」シンボルによって多様なアイデンティティを節合し、複合的な統一体を作り上げて支持基盤とするイデオロギーと見なす、E.ラクラウのポピュリズム定式化を参照する。

ホールの分析に従えば、サッチャー新自由主義保守主義を接合し、富裕層には反労働組合的な呼びかけ、労働者には反移民的な呼びかけを行う事で、本来多様であるアイデンティティを節合し、新しい政治主体を表象する「意味づけをめぐる政治」を展開したのであった。

 

 

ラクラウ的なポピュリズム概念に於いては、ポピュリズムは、以下のようにして様々なアイデンティティの中から統一的主体を産出する。

①社会内に於いて要求を掲げる複数のアイデンティティが、何らかの共通性を軸に等価性の連鎖を起こし、集合的アイデンティティを形成する。

②形成された集合的アイデンティティは、自己の要求の達成を疎外する対象を意味構築する(「我々」と「彼ら」の対置)

③集合的アイデンティティは、普遍的なシンボルを構築する事でより多様なアイデンティティを吸収し、拡張する。④「彼ら」を現状の政治システムそのものと見做し、ヘゲモニー闘争が発生する。

ラクラウは、このような集合的アイデンティティによって構築される主体を「民衆」と捉え、ポピュリズムは、複合的に構築された「民衆」の憤懣/要求を明らかにし、民主主義を深化させる可能性を持つと評価していた。

ラクラウにとっての「民衆」は、本質的な異質性と動員による同質性を併せ持つ不確かな存在であり、彼らがヘゲモニー闘争の中で解体と構築を通じて集合的アイデンティティを変動させる事で、民主主義の深化に繋がると考えられたのである。

 

 

 

長くなったが、本文の内容理解はここまで。

 

ラクラウのようなポピュリズム理解は、政治学に於けるスタンダードとは少し異なった見解である為、注意されたい(とは言え、ポピュリズムの可能性に着目する論者は少ないわけではない)

ポピュリズム研究に関する近年の良書として、ヤン=ヴェルナー=ミュラーポピュリズムとは何か』をお薦めする。「現象としてのポピュリズム」に加え、「言説としてのポピュリズム」にも分析を広げており、欧米のポピュリズム概念の差異を明確に示している。

 

 

本稿への総評だが、やや簡略化のきらいはあるものの、戦後日本に於けるマス・コミュニケーション史を概括的に理解するには極めて便利な著作である。 メディア論と政治学の結節点にあるメディア・コミュニケーション論の論考であるが、特段一方に偏った知識を要求するわけでもなく、大変読みやすい。

また、ポピュリズムの例として(またしてもやや簡略化のきらいはあるが)2016年のアメリカ大統領選挙という典型的かつ重要度の高い事例を挙げて、読者の興味を刺激するように論じている。

しかし、「ポピュリズム」概念をトランプ・小泉・サッチャーのみに代表させることは当然出来ない為、議論が早足になっている感は否めず、『ポピュリズム政治に於ける「民衆」と「大衆」』と大上段に構えたにも関わらず、論じきれていないように思われる。

また、よく整理されている一方で、全体を通じて筆者の独自性は薄いものと感じられた。

 

 

本稿への疑問点は、一点のみ。

 

①本稿は、現代に於いては、マスメディア対ソーシャルメディアという二項対立は意味を為さず、そのどちらもがポピュリズムを支える「マス的な」メディアとして働いている、と指摘する。

しかし、本稿でも挙げている通り、トランプ候補は、マスメディアを既得権益層の擁護者で反トランプ派の勢力、即ち「敵」と位置付け、ソーシャルメディアを中心に政治的主張を展開した。

その結果、少なくない人々が彼の言説(その中にはフェイクも含まれている)を毀損のマスメディアより信頼できるものと評価し、拡散した。

この構造は、近年の欧州に於ける右翼ポピュリズム政党の台頭とも共通する。

従って、少なくとも現在に於いて、ポピュリストが権力を掌握しようとする場面=最もポピュリズム的な場面では、マスメディアはポピュリズムを支えるメディアにはなりにくい。

本稿の中であげられている「小泉劇場」は、現在ほどソーシャルメディアの発達していない00年代の例であり、10年後の現在、そのメディア的状況は一変してしまっている。

従って、ポピュリズムを支えるものは「マス化」したソーシャルメディアであり、マスメディアではないと考えられる。

 

 

本稿に関する議論は、常時歓迎している。

 

『アテナイに於ける「暴力」的政権の記憶と記録』

 

論文名:アテナイに於ける「暴力」的政権の記憶と記録 

著者:高橋秀樹

所収:新潟大学資料学研究 6号 pp.35-45

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0ahUKEwiRjuvsh47XAhVTNbwKHf_fBGUQFggqMAA&url=http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/12975/1/04_06_Y0003.pdf&usg=AOvVaw0G1BaDVIRpBx_RoaJu7ZLM

 

   

 

本稿は、アテナイ僭主政(ソロン以前~ペイシストラトス)に於いて用いられる「暴力」概念と、その後のアリストテレスに見られる「暴力」概念の変化についての論考である。

   

 

 

本稿は、ソロンの「暴力」概念からスタートする。

彼はオリンポス神話の「暴力」概念を援用し、僭主政の中心に正義に制約されない「暴力」を見出して批判したが、ペイシストラトスが「暴力」に拠らない合法的な僭主政を現出したことで、この構造は断絶した。

時代が下ってアリストテレスの『ポリテイア』に於いては、僭主政の定義に神話性を帯びた「暴力」は見られず、支配者と被支配者の意志の問題、即ち主体を持った個々の市民が前提とされた政治観が展開されている。

これは政治が脱神話化して市民の物となったことを意味し、古代民主制に繋がる第一歩であった、と筆者は述べる。

 

  

  

ソロンは、僭主政を「僭主が暴力を持って市民に相対する政治体制である」と定義した。

彼の用いた「暴力」の概念は、単なる物理的力の行使ではなく、オリンポス神話に於ける神々の一柱、bie(或いはbia)である。

古代ギリシャに於ける神々は、人々の生活から遊離した物語の上の存在ではなく、各々の意思を持って世界に存在する主体であった。

ヘシオドスやホメロス、ソロン自身の詩篇にも「狂気が人をつかまえる」等の表現が見られるように、この時代に於いては、人間の心理作用や諸行為は、一個の人格の中で統合されているものではなく、能動的に働きかける神々の力によって成立しては消えていくものと考えられていた。

ソロンの用いた「暴力」も、そのような人間の外にある能動的主体としての存在を含意している。

  

 紀元前594年、アイシュムネーテース(全権調停者)として独裁的権限を得たソロンは、自らの権限を僭主政のそれと区別しようとした。

「私は暴力によって僭主政のようなことをするのではない」「私は力で以って暴力と正義を一つに結び合わせながらこれらの事を為し、約束した通りに完遂したのだ」

彼がここで取り上げ、僭主政が体現すると示す「暴力」は、正義と結び合わされていない、「生のままの(ameilichos)」暴力であり、彼自身の独裁的権限は、「正義と結び付いた暴力」として画されている。

ソロンはこの構造を示すことで、僭主政は神的秩序に不適格な政体であると示そうとした。 オリンポス神話に於ける「暴力」は、はじめゼウスに従わない荒ぶる神であったが、後にはゼウスに忠誠を誓うこととなる。

  

ソロンの後、ペイシストラトスが独裁的な権力を握る。

しかし彼の政局運営は、「暴力」的なものであると言うよりは、穏和で合法的なものであった。

これによって、ソロンの提起した、「ゼウスに服さない生の暴力に拠る僭主政は神的秩序に相容れない」との批判は力を失う。

ソロンの提起に於いて既に「生のままの」「正義と結び付かない」と付言されていたように、既に「暴力」の定義は動揺していた。

その上でペイシストラトスの僭主政を「暴力」に拠るものと考えるならば、既に揺らぎつつある「暴力」が、その定義そのものを変化させる必要に迫られる事になり得たのである。

  

さて、ペイシストラトス家の僭主政は、スパルタの攻撃によって終焉を迎えた。

しかし、アテナイ人は、僭主政終焉の象徴として、スパルタの攻撃ではなく、二人のアテナイ人による、ペイシストラトスの子・ヒッパルコスの暗殺を記録した。

二人の「人間」によって僭主政が終焉を迎え、民主制への改革に繋がっていくことが、アテナイの公式の記録とされたのであった。

  

次に「僭主政」の概念が登場するのは、アリストテレスの『ポリテイア』を待たねばならない。

そこでは僭主政は三つの段階に分けられており、ペイシストラトス家の僭主政は第三の類型に収められている。

それは、「全く責任を問われずに、自分と同等か優れた者を、支配されるものの利益ではなく自身の利益の為に支配する独裁制」である。

ここに於いては、もはや僭主政のうちに神話的な「暴力」の要素は存在しない。

人間の上に存在する能動的な主体としての神格は現れず、単に支配者と被支配者の意志のみが問題とされている。

纏めれば、ペイシストラトス家の僭主政以前は半ば神話的領域に於かれていた政治が、ヒッパルコスの暗殺を象徴として、アリストテレス以降、人間の意志の問題として記録されるように、即ち認識されるようになっていったと考えられる。

かくして能動的な主体としての地位を得た個々人の市民は、個人の見解を衝突させつつ政治的意思決定を行う、古代民主制の時代に入っていく事となる。

 

 

本文の内容理解はここまで。問題があれば指摘して頂きたい。

  

 

まずは総評として、「人々が概念を如何に記録したか」に着目し、整理された論旨と構造を提示する点で、論理展開は極めて分かりやすい。

人間の(或いは人々の)観察と記録は、当然ながら、彼らが何を如何にして認識しているかに大きく依存する。

こと研究資料を主観的記録に依存しがちな古典研究に於いて、この点に着目し、纏め上げたことは評価に値する。

 

 一方で、以下のような疑問点も残る。

 

  1. 僭主政と「(生の)暴力」との観念的結合は、ペイシストラトス期には現実との軋みを生じさせ、その限界が神話から人間への移行を可能とした、と筆者は論ずる。しかし、僭主政と暴力の結合は、まさに前任者達と自身を区別したいソロンの提起によって現れたものである。ソロンの定義に於いて政治が神話的様相を有していたからと言って、それをソロン以前から続くアテナイの政治認識として拡大することには無理があるように考えられる。
  2. 「あくまで僭主政を暴力という神格と結び付けて考えようとするなら、暴力という神についての観念そのもの、つまり暴力の定義そのものを変えてしまわざるを得ない状況に直面した」(p.41)  なる部分の論証は、些か早急に過ぎる。確かにペイシストラトスの僭主政は、ソロンの定義した「暴力」とは結び付かない。しかし、本論文の指摘するように、「暴力」という神格自体は、「生のままの暴力」と「ゼウスに従う暴力」の二つの側面を持つ。ペイシストラトスの僭主政が、ソロン同様、「ゼウスに従う(正義と結び付いた)暴力」として認識されることはあり得なかったとは考え難い。となれば、僭主政が結び付かなくなったものは、「暴力」という神格それ自体ではなく、「生のままの暴力」であり、「ゼウスに従う暴力」へと変化したと捉え直される可能性を残す。「暴力という神についての観念そのもの」を変える必要は無いのである。
  1. ペイシストラトスの僭主政以前は神話的領域に於かれていた政治が、ヒッパルコスの暗殺を象徴として、アリストテレス以降、人間の意志の問題として認識されるようになっていった」との解釈は、私も誤りではないと考える。しかし、その転換点を、僭主政と「暴力」の結び付きの動揺のみに大きく求めることは、2.で示した論拠から、困難であると考える。「暴力」の動揺は、要因ではなく結果の一つとして捉えるべきであろう。 

 

 

本稿に関する議論は常時歓迎している。